もどる
自分はかつて此の境に佇立して、 落日の光の穏やかに林を照すのを見て、 かの詩人の詩にはじめて思い当ることがあった。
国木田独歩「武蔵野」
背景解説
本で読んだ言葉が、実際に風景を見た瞬間「ああ、これのことか!」ってなる体験。独歩はツルゲーネフのロシア文学を読んでいて、武蔵野の夕日を見た瞬間に文学と現実がつながった。読書って、こういう瞬間のためにあるのかもしれない。
文学と現実が交差する瞬間の感動。
あらすじを見てみる →
本文を読む →
『武蔵野』の他のひとふみ
武蔵野の美についてはだれが一番よく知っているか。 自分は先ず蕪村を推したい。
国木田独歩
武蔵野に散歩する人は、 道に迷うことを苦にしてはならない。
国木田独歩
今の武蔵野は昔の武蔵野ではない。 しかし今の武蔵野にも、 自然の美がないと云うものは、 必ずしも自然を解していないのだ。
国木田独歩
落葉の音と自分の足音とのほかには何の音もなく、 非常な静かさが四辺を領していた。
国木田独歩
林を出て広い畑に出ると、 からりと晴れた空が頭の上に展開し、 秋の日が一面にきらめいていた。
国木田独歩
秋の半ば、十月の末から此の雑木林の変化は見事である。
国木田独歩
武蔵野の俤は今纔かに此の大きな林に残っている。
国木田独歩
この落葉林の趣きは、 いかにも東京のすぐそばにある自然として 最も相応しいではないか。
国木田独歩
自分は風景の中に生きているのである。 自分は風景の一部分であるのだ。
国木田独歩
されば武蔵野の美にして、 一日だも変化のない日はなかった。
国木田独歩
自分はこうした武蔵野を愛するものである。
国木田独歩
← ホームに戻る